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                 レイカディア大学 草津キャンパス               

地域文化学科44期へようこそ

【観光ボランティア、校外学習のページ】



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<観光ボランティア講座「郷土理解と観光ボランティア」、校外学習>

 2024年1月より「郷土理解と観光ボランティア」の講座が開講されました。このページではその校外学習の様子を皆さんに紹介します。

(1)43期先輩方の観光ガイド

 今回は、43期生のCグループの実践結果である「古代寺院跡を巡るツアー(草津市常盤地域)」に参加した様子です。
 ボランティアガイドというもののハードルの高い実践内容でした。
 雨降り 風吹き ちょっと日差しがある寒~い校外学習で、これからの学習が予測されるようなお天気でした。


 草津の一地域になぜこれだけ多くの寺院が建立されたのか、をこの地区を巡りながら考えるというツアーです。

講座開催日  校外学習場所など 学習時の様子
2024年2月27日(火)   草津・常盤地区 古代寺院を巡るツアー 「43期生実践報告」 巡る寺院は以下の通りです。

印岐志呂神社 ⇒ 観音堂廃寺跡 ⇒ 花摘寺廃寺跡 ⇒ 芦浦観音寺
印岐志呂神社 印岐志呂神社は創祀年代が不詳とのことですが、天智天皇の勅願により大和国三輪大社から分祀されたと社伝で伝えられているとのことです。

  
観音堂廃寺跡 観音堂廃寺では、「素弁の輻線文縁軒丸瓦」の破 片が4片出土したと説明がありました。白鳳時代に創建され、10世紀中頃まで存続したと考えられているようです。

  

  
田んぼの真ん中の道にて  

西を眺めると比叡山が、東を眺めると三上山が、この地はその両山を一直線上に結んだ位置にあるとのこと
花摘寺廃寺跡 井戸の後ろの置いてあるのは、建物の礎石。
大きい礎石は一辺が1.8m、中央に30cmの穴があり、これが塔の柱の礎石であったと思われ、これが塔の心礎とすれば、塔の高さは42m(ビルの高さでいうと12階建てに匹敵)と推測されるとのことです。

 

花摘寺跡が建てられていた在所の名は「下物」と書いて「オロシモ」と読みます。
聖徳太子がこの地の港に荷を下したことに由来する、とお寺の説明文(地元常盤小学校生徒作)がありました。

芦浦観音寺廃寺跡 芦浦観音寺は聖徳太子が開基したと伝えられており、歴史上、特に重要な役割を果たすようになったのは中興より数えて七代目住職の慶順が織田信長から琵琶湖の水運権を任せられるようになってからとのこと。湖上管船奉行として、現在の大津市観音寺町に代官所を置き政務をとりました。政務に参与したのは、7世慶順から111年間にわたったとのことです。

また、大津市の観音寺町、東京の観音坂も芦浦観音寺が由来となって命名されているようです。


 

しかしながら、長年の風雨で建造物の劣化が激しく、守る会を設立し、修復費用をクラウドファンディングで募集したようです。2022年1月に目標金額を集めることができたということです(ネット情報)。

保存、修復資金は古ある建造物にとって課題となっているようです。

 

草津市史には、近江の白鳳寺院跡の数は、当時日本の中心であった大和地方に匹敵しており、とりわけ草津市常盤地区にこれだけ多くの寺院が建立された場所は、大和の飛鳥地域を除いては存在しないであろうとの記載があります。

この地に古い寺院が多い理由は、天智天皇が667年に大津京を開いたことに関係すると思われ、蒲生野の狩場や湖東地域への交通の要衝として、志那や下物に港があった常盤地区が重要視されたのであろうと推察されています。



(2)湖北観音の里フィールドワーク

 大野先生、西嶌先生と共に湖北観音の里を訪問し、観光ボランティアについて学習しました。
 目的は観光ボランティアの育成ですが、当日、天候が良いこともあり、気分はすっかりピクニックでした。

    開催日          校外学習訪問先                    学習時の様子                                 
2024年3月27日   高月駅~
観音の里歴史民族資料館 
高月駅に集合し、徒歩にて観音の里歴史民族資料館を訪問しました。
その間、西嶌先生にガイドをしていただきました。

この近辺には巨木が多いとのこと。以下の写真でも何本か紹介しますが、園芸学科の方もこの巨木を見る
ためにこの地を訪問しているとのことです。


 

 

この地はかって東にそびえる己高山を中心とした仏教文化が繁栄しました。
しかし室町期頃、寺々は弱体化し、無住化、廃寺化しましたが、そこに残された仏像は、宗派の枠を
越えて村の守り本尊として民衆に大切に守られてきたとのことです。
戦国時代、湖北地方は戦場となりましたが、民衆は仏像を地面に埋めたり、川に沈めて仏像を守ったそうです。
献身的に仏像を守り継いできた民衆による歴史こそが、「観音の里」と呼ばれている理由と紹介されていました。

渡岸寺観音堂  この寺の十一面観音立像は、平安初期・泰澄作と伝わっています。
日本彫刻史における最高傑作で国宝に指定されており、井上靖氏の小説にも登場します。
この仏像も戦国時代に村人により土中に埋めれら戦禍を免れたとのことです。


 

 

 
  雨森芳洲庵  雨森芳洲は高月町雨森出身の江戸中期の儒学者です。
22歳で対馬藩に仕え、それ以降、日本と朝鮮の外交(特に朝鮮通信使)に尽力した偉人です

我々が芳洲庵を訪問した際、館長が自作のウェルカムボードで出迎えていただきました。
また、庵内に繁る木は「槻(ツキ、ケヤキの古名)」であり、この地に槻が多いことから「高槻
(のちに高月)」と命名されたと案内板に記されていました。

 

芳洲庵に到着後、すぐに昼食となりました。
いつものようにいただいたお弁当と食事をしている皆さんの様子です。
 

館内で雨森芳洲について学習
朝鮮との外交、朝鮮通信使への随行について尽力されていた様子を、時には冗談を交えながら楽しく、紹介していただきました。
 

 


高月観音堂  この寺の仏像は千手観音立像で室町期の作といわれています。戦乱の昔、兵火から逃れ、岩の上に立たれたとされ、火災から村人を守る「火除けの観音様」として広く信仰されています。

この本尊は写真撮影自由とのことをお聞きしましたので、以下にその姿を紹介するとともに、本尊と一緒に集合写真も撮影させていただきました。

 



 

「観音の里」について観光ガイドをしていただきました。
ガイドとして説明する内容に加えて、その地の歴史的背景や地理に関する知識も必要と改めて感じました。

観光ボランティアになる、ならないは別としても郷土の歴史、地理にもっと興味を持ちたいと思いました。




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